札幌の歴史的建造物

『清華亭』
DSC_3686_00021札幌駅から徒歩で10分程のところに『清華亭』がある。
開拓使の貴賓接待所として、明治13(1880)年、札幌の最初の公園であった偕楽園に、開拓使の工業局が設計監理によって建てられたものだ。命名者は開拓使長官黒田清隆で、当時「水木清華亭(み ずきせいかてい)」とした。明治天皇行幸の際に休憩された由緒ある建物だ。DSC_3677_00012DSC_3674_00009

木造平屋建の外観は出窓があるなど、洋風であるが、内部は漆喰塗で大きな張出し窓が広がる洋室 と、縁側のある和室を並べた和洋折衷様式となっていて当時とすれば、かなりハイカラな間取りは、現代の住宅様式の先駆け的な建物と言えるのではないか。

『北海道庁旧本庁舎』
DSC_3699_00007DSC_3687_00022明治21(1888)年に竣工した『北海道庁旧本庁舎』は、平井晴二郎を主任とした同庁の技師が設計を担当した。アメリカ風ネオ・バロック様式のレンガ造りで、約250万個を数えるレンガはフランス積みされている。
DSC_3696_00004建物の中心にある八角塔は米人開拓使顧問ケプロンの計画によるもので、当時のアメリカでは独立と進取のシンボルとして、ドームを乗せる建築様式が流行していたことによると言われている。
札幌の原野に高さ33メートルのこの建物が建った時には、人々を圧倒したことでしょう。また、シンプルな後ろ姿は女性的で美しい。
玄関アーチから見る晩秋の銀杏並木は感嘆の一言だ。

『日本キリスト教団札幌協会』
DSC_3710_00018DSC_3707_00015明治37(1904)年、北海道庁の土木科に勤務し、教会の信者だった間山千代勝が設計を行い、木造の教会が焼失した後に建てられたもの。
木造骨組の表面に当時札幌市で採石された札幌軟石を貼り耐火に備えた構造になる。創成川通りの西側に面している教会堂は、西側にのみ塔が建てられており、ロマネスク様式のデザインを基調とする。加えて、アーチ型の開口部分、頭頂部に設置された十字架、バラ窓など細部に特徴のある造りは、ゴシック風のデザインを思わせる。建物全体の平面はラテン十字型である。青い屋根や色彩豊かな窓のモザイクも特徴であり、市街地のランドマーク的存在として広く親しまれている。

『旧札幌農学校演武場』(時計台)
DSC_3715_00023DSC_3722_00030DSC_3721_00029札幌に始めてきた観光客が必ずと言っていいほど訪問する『時計台』は、クラーク博士の提言により、農学校生徒の兵式訓練や入学式・卒業式などを行う中央講堂として1878(明治11)年に建設された。正式名称は『札幌農学校演武場』というが、これは札幌農学校(現北海道大学)は兵学を課していたため、1階が教室と実験室、2階が演武場兼講堂として利用した。
建築当初は時計塔が無く、小さな鐘楼のみでしたが、後に米国製の時計機械が設置されることになり、玄関正面部と鐘楼を取り壊して時計塔が造られた。塔時計は、わずかな部品を取り換えた以外は一世紀以上前の機械が使われている。多くの観光客が訪れる時計台ですが、昭和41(1966)年までは図書館として利用され、勉強の場所を求める学生達の長蛇の列も見られたそうだ。
2階の演武場は長椅子が並べられ、当時の学生の姿が目に映るようだ。

『旧永山武四郎邸』
DSC_3727_00034DSC_3730_00037DSC_3732_00039永山武四郎(1837~1904)は、屯田兵司令官、第七師団長、第2代北海道庁長官を歴任するなど、北海道の開発に多大な貢献をした人物。この建物は彼の自邸で、外観は簡素な洋風のデザインをしています。
内部は和風と洋風の応接室が直接連結されている点が大きな特徴で、特に部屋の出入口額縁の装飾は、表裏異なったデザインをしています。DSC_3747_00054北側の洋館は三菱鉱山寮時代に増築されたものです。

2015年11月05日 | Posted in 建物探訪記