『小住宅』を訪ねて ④ “軽井沢高原文庫” 《文学者の別荘》

DSC_2208_00031DSC_2176立原道造の『ヒアシンスハウス』を訪ねた時、軽井沢の塩沢湖に彼の詩碑があると聞き、行きたくなった。その上、そこには『ヒアシンスハウスの旗』のデザインを依頼した深沢紅子の美術館もあると言うじゃないか!
そこは『軽井沢タリアセン』にあった。

「タリアセン」とは──────────
直訳すれば、ウェールズ語で「輝ける額」という意味です。
DSC_2260_00052もともの語源はケルト神話に由来し「知恵者」であり芸術をつかさどる妖精「タリエシン」から、といわれています。法政大学女子高等学校名誉校長も務め「女性である前にまず人間であれ」の言を残す。(軽井沢タリアセンHPより)

“浄月庵” 有島武郎が情死した別荘
“浄月庵”で「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」と書き残し、波多野秋子と心中したのは、1923(大正12)年の事だ。
有 島武郎の代表作には『カインの末裔』(1917年)『生まれ出づる悩み』(1918年)『或る女』(1919年)などがあるが、夏には来軽して、ここで執筆していたのだろうか。小屋裏から覗く軽井沢の木々は彼の眼にどのように映ったのだろうか?現在は三笠から移築され、1階はカフェになっている椅子に腰を下ろすと、彼の凛とした姿がそこにあるような気がした。

DSC_2191_00014DSC_2189“1412番山荘”堀辰雄の別荘
堀辰雄の代表作と言えば、『風立ちぬ』であろう。当時の婚約者(矢野綾子)との実体験を題材にした作品と言われ、肺の病気(結核)におかされ、日々死に近づいていく生の意味を問いながら、豊かな自然に抱けれ、はかない時間を超越した喜びが存在する様子を描き出した作品はまさに軽井沢の自然が生み出したといえる。
アメリカ人のスミス氏から買い求めたこの別荘の暖炉は安普請であったが、厳しい軽井沢の冬を暖かく過ごせたと言う。
堀辰雄は自身も肺結核で『風立ちぬ』のままに、枯れ木から葉が落ちるように軽井沢で没した。
その後、画家の深沢省三、紅子夫妻が夏のアトリエとして使用していた。

DSC_2207_00030DSC_2210_00002“鬼女山房”野上弥生子の書斎
正岡子規の友人である柳原極堂が創刊した俳句雑誌『ホトトギス』に作品を発表したことから作家デビューした野上弥生子は、日本昔話に出てくるような質素な書斎で高浜虚子と月を眺めながら「ホトトギス」の話に興じたと言う。
“ホトトギス”は夜になく鳥として珍重され、「鳴いて血を吐く」と言われたことから、正岡子規は自分と重ね合わせ、俳号をホトトギスの漢字表記のひとつである「子規」にしたそうだ。
軽井沢の澄み切った夜の空気の中に響き渡るホトトギスの声を聴きながら、孤独を楽しんだのだろうか。

“睡鳩荘(すいきゅうそう)”実業家朝吹常吉の別荘DSC_2246_00038DSC_2251_00043
この別荘は帝国生命や三越の社長を歴任した朝吹常吉が昭和6年に建てたものである。
DSC_2242_00034設計はW.M.ヴォーリズによるもので、1階のリビングは、まさしく“セレブ”な生活をしていたんだなと想像される。照明やドアノブなど、昭和初期の香りが漂い、軽井沢に残る別荘建築の代表的なものとされる。
フランス文学者である娘の朝吹登水子が毎年夏を過ごしたのも、この別荘である。

pianoDSC_2234_00026国登録有形文化財”旧・軽井沢郵便局”で触れる、深沢紅子の世界
明治四十四年に建てられた”旧・軽井沢郵便局”は木造2階建ての洋館だ。
それを移築して、軽井沢の野花を愛した深沢紅子の美術館にしている。
1階のレストランには1920年代、建築家フランク・ロイド・ライトがデザインした貴重な自動演奏ピアノが置いてある。

2015年10月02日 | Posted in 建物探訪記