合間の贅沢 vol.5 蔵の街・小江戸 川越(川越市)

DSC_7724「小江戸(こえど)川越」と聞いて、大半の人が「江戸時代にタイムスリップできる」と期待する。DSC_7712
僕もその一人だ。

札の辻(ふだのつじ)から仲町までの通り沿いには、30棟程の蔵造りの商家が軒を連ねている。
実は、明治26年(1893)、大火により町は壊滅的な被害を受け、大沢家住宅などの数軒の蔵造りの家だけが焼け残った。それにより、DSC_7723川越の商人たちが耐火性に優れた蔵造りで町家を建設し始め、川越が蔵造りの街図1へと変身していった。川越のシンボル「時の鐘」は、“火の見櫓の半鐘”の役割もあったのだろうか?
どの時代も、災害と対策の繰り返しであることを改めて感じる。

それにしても、何故、川越は「小江戸」と呼ばれるのだろうか?
何故、壁は黒いのか?

「伝統的建造物群保存地区」に指定されたのは1999(平成11)年に、キャッチコピーとしての「小江戸」が生まれ、壁が黒いのは「戦時中の灯火管制により、黒く塗ったものだ」と思っていた。DSC_7759

DSC_7714それが、全く違った。
川越が「小江戸」と呼ばれたのは、元禄時代の頃からである。
新河岸川の仙波(川越)は水運の拠点であり、川越街道と合わせて、農産物をはじめあらゆる物資を江戸へ送り込む商品輸送の拠点でもあった。水路で浅草までおよそ半日という距離が、川越に富と繁栄をもたらした。
“黒”は江戸っ子たちの間で粋とされた色で、蔵の黒は「江戸黒」と呼ばれ、江戸末期の商人たちの間で大流行したのだという。  ♪粋な黒塀 見越しの松に・・・♪
つまり、川越の商人たちは、大江戸の商人たちの建築と富みを象徴する「江戸黒」の蔵を建てることにより、一流の商人であることの証としたのであろう。故に「江戸黒」の蔵造りが街並みとなって残っている川越が「小江戸」と呼ばれ、川越の蔵が黒いのは粋な江戸商人の流行りの歴史そのものである。

DSC_7731DSC_7785江戸時代の商人様式の建築を明治の末期の大火後に再建した川越は、ある種柔軟性とバイタリティーのある街と言える。それは、蔵造の建物の中に、大正、昭和初期に建てられた洋風建築が出しゃばらず、かと言って存在感を示し、まるで完成したジグソーパズルのようにピタッと納まっているからだ。

「伝統的建造物」は過去の踏襲だけではなく、今が織りなす伝統があるべきだ。
「この街に是非S.S.W.14工法を使った建物を建ててみたい」そんな思いを胸に抱いた。

「蔵の街・小江戸 川越」は江戸時代へのタイムスリップではなく、次時代へのワープを感じさせる街だった。

2017年12月11日 | Posted in 建物探訪記