熊本大地震調査報告 vol.3 熊本城の現実

西南戦争で熊本城は、政府軍(官軍)の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となっていた。
西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)原因不明の出火で大小天守などの建物を焼失したにもかかわらず、官軍と西郷軍の間で戦いを含む激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え、ついに西郷軍の撃退に成功した。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったという。
官軍の守る熊本城を攻め落とすことができなかった西郷隆盛は「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と言ったという。
その堅牢を誇った熊本城が、大天守の瓦は落ち、加藤清正が近江国から率いてきた特殊技術を持つ石工集団、「穴太衆(あのうしゅう)」よって作られた石垣(当時のものかは不明)があちこちで崩落している。
私は茫然自失で、二の丸公園から、それでもなお踏ん張って建っている大天守と戌亥櫓(いぬいやぐら)をしばらく見上げていた。
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2016年05月12日 | Posted in 私感・直感