『小住宅』を訪ねて ① “風信子荘(ヒアシンスハウス)”

DSC_1828_00031「あなたのお言葉のおわりにも ヒアシンス・ハウスのことがしるされていましたので とうとう この手紙の最 後で 僕の夢想をいちばんあとにまでかくしておこうとしたあなたに お知らせいたしましょう 同封しましたのが その計画の製図(http://www.tachihara.jp/info2-8/info2-82.htm)されたものです 旗は 深 沢紅子さんがデザインしてくれることになっていて それは僕にもどんなのが出来るのかわかりません ヒアシンス・ハウス(風信子荘)という名前です」と兄と慕っていた詩人でありドイツ文学者である神保光太郎に宛てた立原道造の手紙の中に記されている。
詩人の立原道造は東京帝国大学建築学科卒業で、辰野賞を3年連続受賞する“建築家”という二つの顔を持つアーチストであるとは全く知らなかった。図5
早速、妻の蔵書の立原道造の詩集を読んでみる。
「萓草(わすれぐさ)に寄す」
立原の処女詩集「萓草(わすれぐさ)に寄す」は昭和12年、風信子叢書(ヒアシンスソウショ)と名付けられて刊行されているが、旗竿を立てて、少年の秘密基地のような建物をデザインするとは詩集からは読み取れない。ヒアシンスハウスに戻るとスルスルと旗を揚げ、満足げに腰に手を当てている子供っぽい立原が目に浮かぶ。
そんな立原は、ヒアシンスハウスを完成することなく、享年24歳という若さで逝った。

DSC_1830_00033別所沼畔にはメタセコイヤが生茂り、散歩道にあるベンチに丁度良い日影を提供している。
ポプラの木を背中に5坪ほどのちっちゃな建物は、昭和初期に時間を巻き戻すかのように存在する。
窓枠や妻壁、そして旗の青に近い萌黄色が印象的だ。けっして贅沢とは言えない建物だが、誰もが「これで良いんだよな」と言わせる豊かな空間と時間が流れる。
DSC_1811_00016裸電球の向こうにあるベットでどんな夢を見ようとしていたのだろうか。
部屋に入ると、“一人”とか“孤独”という言葉が浮かぶ。それなのに“寂しさ”といった感情は湧いてこない。とにかく、楽しそうな立原がそこに座っている気がする。
「浦和に行つて沼のほとりに、ちひさい部屋をつくる夢」があった立原。その名は『ヒアシンスハウス』。
2004(平成16)年、「詩人の夢の継承事業」として『ヒアシンスハウス』建設の機運が高まり、多くの市民たちや企業、行政の協調のもと、実現した。これは別所沼周辺の芸術家たちの交友の証としてでもあった。
この事業の中に、“『小住宅』を訪ねて ③”でおじゃまする「ものつくり大学」が協力している。なにかの縁を感じざるを得ない。

立原は亡くなる半年ほど前に以下の文章をしたためている。

草稿 「鉛筆・ネクタイ・窓」から [1938年秋頃執筆] 

 僕は、窓がひとつ欲しい。

 あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは 美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓台は大きい方がいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザ ミなど紫の花ならばなほいい。

 そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトに は少年少女がのつてゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきり した輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。

 僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。

 僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……

■場所
埼玉県さいたま市南区 別所沼公園内

■交通
JR埼京線 中浦和駅から徒歩5分
JR京浜東北線 浦和駅から徒歩20分

<埼玉県さいたま市南区 別所沼公園>

2015年09月14日 | Posted in 建物探訪記